筆者/佐藤浩二
はじめに…。デジタルが跋扈(ばっこ)するこの世の中であっても、それらの世界は実はほんの僅かであり、それらに包まれている僅かな世界の外は、そのデジタルで検索さえすれば一応それらしき答えは検索できるが、真実は曖昧な森羅万象に支配されている世界なのである。その水面の底に、森の奥に、波音しかしない夜闇の海原に…蠢いている‶それら‶の声や姿を感じる時はきっとすぐにあると思います…。釣り東北ウェブ夏休み特別企画として、釣り場・フィールドで起こる、心霊・不思議な怪談を全6回でお届けしたいと思います。
肩を掴む手
これは私自身が30年程前に体験した秋田県北部の小さな渓流での話。閑村を通り越し、鬱蒼としたブナの原生的な山が迫る限界的な集落にあるこの川は、お恥ずかしい話、私がこの界隈の釣りで絶望的な貧果に終わりそうな時に最後の望みを掛けて入る流れなのである。
盛夏の猛暑に喘ぎながらこの川に来たのは、どの川も絶望的な渇水の状況。しかしながらこの川の上流部は原生的なブナが濃く、心ばかりか他の川より水量がある感じ。車から降り、ルアーロッドを携えて堰堤の上から入渓してから直ぐにその異変はあった。
自分の後ろに人の気配がするのである。一定の間隔というか、キャストをしリールを巻き、ルアーをピックアップと一通りの動作を終えてから後ろを振り返ると姿は見えない。その時は丁度、カーブを過ぎてからのキャストだったので、必然的に下流はカーブ、その先はブラインドになるのだから姿は見えなくて当然なのだろう。
気にせずに歩き出す。また一連の動きを終えて振り返るとボサが迫り出していたりで、わざわざ戻ってまで後行する釣り人の姿を確認するまでもないだろう。この時は先の川での貧果で気が急いでいて、後からの釣り人と言葉を交わそうものならポイントを譲るどころか先行の入れ違いになったら元もこうもないという浅はかな考えが頭の中を満たしていた。
水量、自分より先の入渓者の雰囲気もない好条件にも関わらず魚は一向に出ないまま遡行を続ける。相変わらず後背には人の気配。これだけ共に遡行しているのだから少しでもその姿が見えるものだろうという疑問は魚の姿を拝めないことも手伝い徐々に苛立ちに変わる。
その流程の一端の区切りとなるポイントである魚道を設けた堰堤に差し掛かることになる。構築されて久しいことを物語るのが魚道の縁。コンクリの上には苔生した厚い土が覆い、そこからは鬱蒼とした背丈以上まで生い茂る灌木のようになったオオイタドリが道を阻む。この光景を見て更に気が滅入りながらも「身を仰け反らせながら魚道に沿って進むしかないな…」。
諦めにも似た覚悟で歩を進める。時折、被さるイタドリを掻き分けながら半螺旋になる魚道に反って進むと、後方でもイタドリの藪がワサッ!ワサッ!と揺れる。やはり付いてきているヤツが居るのだ。今まで一定の距離を置いていたヤツが今度は歩を進めるかのように迫ってくる。藪を掻き分けるのなら先行者に近付いたほうが楽なのは至極当然…しかし、そう思った途端に釣れなかった苛立ちも手伝い、怒り心頭と共に切り離してやると自分の歩も早まる。
魚道が左手に離れつつあると堰堤の上部に差し掛かる頃である。それと同時に後方の藪を掻き分ける音も直ぐ背後に。そして次の瞬間、私の肩を「ガッ!」と握り掴む感触が。今こうして原稿を書いていてもパッド入りのフィッシングベストを介してでも明確に残っているのを思い出せるほどに力強く。その後、「グイッ!」強引に後ろに引っ張るまでも!「このヤロウ!ンガナバさっきからナンだじゃ!ザゲルなっテバヤ!」(訳:この野郎、お前はさっきから何なんだ!ふざけるんじゃないぞ!)。
怒号と共に後ろを振り返ると誰も居ないのである…。左側は魚道、右側は堰堤の更に上部の削られた斜面の岩が露出する壁。どこにも隠れようがない場所である。その瞬間、一気に寒気が襲い身体は生々しい感触に硬直。全身の毛穴が開くのを感じた…。その場から早く立ち去りたい気持ちのまま再び歩を進めようとしたらまた更に毛穴が開き切ることになる。
止まった足の、左足が前なのだが踵より先にあるべきはずの地面の感触がないのである?「え?」と思いイタドリをゆっくり掻き分けると眼前の空間は広がり、眼下には堰堤のバックウォーターの水面が満面と広がる。足元はあるべきはずの堰堤の護岸が崩落し辛うじて岩盤が水を停めている状況になり断崖の如く誰かが餌食になるのを待っているかのようであった。
さっきまでの存在よりも、あのまま歩いていたら…という結末のほうに暫くその場で恐ろしさを感じ呆然とした(※この時の昨シーズンで、この場所は崩落していなっていなかったことを付け加えておく)。
魚道を戻り、右側の岩壁がなだらかになる傾斜を見計らい、藪を分けて歩き林道に抜けた。その道中の後背にはもう誰かの、何も気配を感じることはなかった。いつもならこの堰堤を巻き、また入渓し遡行を続けるのであるが、きっとあの誰かは今日の釣りでは私に何か良からぬことが起きると警告すべく現れたのではないだろうか…そう取ると共に、車が待つ場所まで林道を急ぎ足降りることにした。