筆者/佐藤浩二
はじめに…。デジタルが跋扈(ばっこ)するこの世の中であっても、それらの世界は実はほんの僅かであり、それらに包まれている僅かな世界の外は、そのデジタルで検索さえすれば一応それらしき答えは検索できるが、真実は曖昧な森羅万象に支配されている世界なのである。その水面の底に、森の奥に、波音しかしない夜闇の海原に…蠢いている‶それら‶の声や姿を感じる時はきっとすぐにあると思います…。釣り東北ウェブ夏休み特別企画として、釣り場・フィールドで起こる、心霊・不思議な怪談を全6回でお届けしたいと思います。
ジムニーのオヤジの正体
これは私の縁者が渓流解禁日に体験した不思議な話である。その川は県堺に近いこともあり内陸部の最奥にあるダム湖の上流部。話は3月21日。彼岸の真っただ中といえど、まだ雪に深く埋もれ春には程遠い世界である。
道路の除雪はダムの管理事務所がある所まではされているが、その先にある駐車場からは道路は続くが除雪はされず、移動となると徒歩を強いられる。朝方はツボ足での歩行は容易なものの、帰路ともなると好天であれば雪が腐りカンジキがなければ容易ではない。
当時、縁者はスズキ「ジムニー」を駆って渓流に赴いていたのだが、この深山にした理由は、ここに棲むイワナよりも低温でも活発で旺盛なターゲットである魚を狙うべく、ここへ一目散に向かったのである。到着してみると既に道路止めとなる雪上には濃い緑の小さな四駆車が1台停まっていたのだ。
しかし先行者という落胆よりも、その停まっていた車が自分が駆るジムニーの祖である初代のジムニーであったのが驚きだ。乗り込まれた感じがありお世辞にも奇麗とは言えないその出で立ちの印象は今でも忘れられないという。
ガードレールの上部が辛うじて出ているかというほどの雪に覆われた道を歩き続け、その中間部、小高い所に見える池に差し掛かった辺りで、60代位であろうか?服装からして地元の人のような感じの釣り人がその小高い所の斜面から降りてくるのが見えた。
そしてこちらに歩いて来て開口するや否や「このワギ(脇)のイゲ(池)で釣りどごシテたんデネベナ?」と訝しい感じで尋ねてきたのだ。その眼光の鋭さに一瞬、たじろぐも彼は「してませんよ。池で釣るのではなくて上で、渓流釣りですから」と答えると男は表情を安堵へと、ガラリと変えて「あぁ、そいナバい(良)ガった。てっきりイゲさ釣りしに来ダガド思ってタテバヤ」と。更に人懐っこい表情で「このイゲで釣りどごすればサ、タダライル(祟られる)ガラナ」と、笑顔には似使わない言葉を何気に漏らしたものだから、彼の焦りようといえば…。
彼が掲げるルアータックルを見て、その男は「せばイガったら俺ど上サ行ぐが?」と、自ら手にしている道具を見せた。手にしているのは一昔の短くも太いグラスロッドにお世辞にも近代の型とは言えない一回り大きく鈍重に見えるスピニングリール。同じルアーアングラーである。
あまり人とは共に釣り場に入りたがらない彼はそれは身内である私とですらなのである。その彼が見ず知らずの、しかも初見の人間と共に?この話を聞いて驚く私に「地元の人間ほど絶好のポイントを知っているものだ。しかもタックルを選ばないことから腕も相当だろうと見てなおさら、余程この川に精通しているオヤジと見たんだ。それにきっとあの初代ジムニーのオーナーでもあろうから、その話も聞きたいと思ってなぁ」ということであった。抜け目ないのである。
やはりポイントまでの道中は、この川の隅から隅までの話に、停めてあったジムニーのことなどの談義に花が咲いたそうだが、陽が高くなってきて足元が雪のぬかるみに沈むのが頻繁になり、彼はカンジキを装着。しかしその男は一向にカンジキをはめることもなくスタスタと雪の上を歩く。その姿に、地元の川どころか山に精通した人間ならではの所作なのであろうという関心しかなかった。
入渓点に至り、いよいよスタートというところで、その男「道で喋った通りのドゴ(所)さ狙えば、いい魚出るはずだじゃ」と、どうやら川に入る様子でない感じに「え?釣りをしないんですか?」と返すと「ここガラなバ、2人でするにゃセメ(狭い)し…」と遠慮がちに。そして続けて「ソイにエノ者ダ来ルガラ、おらナバそろそろハガさ帰らネバネ」と
「ああ、そうか、そういえば彼岸だからか」と納得。世は墓参りの最中である。むしろこうして釣りに呆けているわけにいかなかったんだろうと思いながら、彼は「また今度会ったらこの川、教えて下さいね」と岸に立つ男に礼をしがてら上流へと向かった。
結局その後は男が言うような場所からは魚は姿を現さず思った釣果には届かなかったのだが、長く閉ざされ竿を振れなかった渓流釣り師しか味わうことのない鬱積した日々からの開放の喜びのほうが大きかったので良しとした。
しかし、清々しい春の陽射しは帰路の雪を柔らかくし尽くし、カンジキをはめてなお、足を取られるほどの苦行ともいえる帰路が待っていることを感じるのは確かであった。やはり、ぐしゃぐしゃに腐った雪は、時折、太ももまでも埋まるほどに深みにはまったりで足を取られる。汗だくになりながら格闘さながらの帰路、彼は歩を進める毎に、とある違和感に気付くのである。
道に残る足跡は自分のカンジキの分しかないのである…。行きで感じた山に精通してこその所作以前に、帰路、この雪の腐れではいくら何でも足跡は残るだろうと、道を見渡しても、帰るべき方向に進む足跡すらもないのである。そういえば駐車場にあったあのジムニーから足跡は伸びていたのだろうか? 記憶を辿ってみたが流石にそこまでは思い出せる由もない。
しかし、記憶を辿る中でとある言葉を思い出した瞬間、全身が凍ったのである。「ソイにエノ者ダ来ルガラ、おらなばそろそろハガさ帰らネバネ」(訳:それに家の者達が来るから、俺はそろそろ墓に帰らなければならない」。この言葉は墓参りをするために帰るニュアンスでない…墓へ帰る? 汗だくになり腐れ雪と格闘して火照った身体が凍りつき、この日、共に居た男が彼岸の先からやってきた存在であるとようやく理解できた。
そして駐車場に戻ると停まっていたのは自分のジムニーのみ…。あのジムニーのタイヤの轍を確認したいと思ったのだが、既に数台の車が来てはUターンをしたのか?そのジムニーらしき停車の痕跡は分からず…。
その一件以来、彼はこの川から足を遠ざけるようになったかと言えば、普通に遊漁期間中は気にすることもなく今なお、好きな川の一つであり通ってはいるのである。教えられたポイントでは未だに良い魚に出逢えてはいないが「神社の脇の池では釣りをしてはいけない」の教えはしっかりと守っているとのことである。